昭和50年12月24日 朝の御理解



 御理解 第37節
 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」

 教祖様の御信心、教祖様がなさったであろう修行、とても私共の想像する事の出来ない世界であり、または想像する事の出来ない修行でおありになったであろうと思うのですけど、学者が年を取っても眼鏡を掛けて本を読むようなものであろうぞいと。もう眼が薄うなったから勉強は要らん、眼鏡を掛けてでも矢張り勉強する。それが学者だと言うなら、研究する事は沢山ある。又は学問の徳が身に付いて行く事がもう楽しゅうして楽しゅうしてと言う境地である。
 信心の修行も教祖様の言葉を借りるなら、この方は人が助かる事さえ出来れば良いと助かる事さえ出来れば良いと言う御修行でおありになった訳です。自分が修行をすれば人が助かる、まあいろいろありましょうけれども。奥平野と言うところに片島センと言う女の先生で大変お徳を受けられた先生が居られた。この方は生涯持病持ちですか体がお悪かったそうです。あまり体の苦しい事が続かれると、神様どうぞ命を断って下さいと言う願いをなさったそうです。
 そしたら神様からお伝えがあって、その方が苦しむと氏子が助かると仰ったそうです。いわゆる苦しむと言う事は、お前がそうして一生懸命苦しい修行して居ると氏子が助かると。氏子が助かる為ならば矢張り自分の苦労も、ただ自分だけのの事を考えて居ると、こんな苦しいなら死んだ方がましと言う程しの矢張り苦もあろうけども、それが人が助かる事に繋がる。教祖様の生きられ方であると言うか、一生が修行じゃと教祖自身が仰って居られる。矢張り一生を修行で貫きになられた。
 教祖様の場合は表行と心行が一つになる御修行であっただろうと思われる。お亡くなりになる一寸前まで、神様が最後の百日の修行を求めて居られる。それこそ亡くなられる間際まで、そういう修行を神様が求めて居られると言う所にです。私共が神様に求めてられる、おる修行と言う者を自覚すると言う事になる。只それが苦しい苦しいと言う事だけでは出来る事じゃないけれども、丁度それは学者が眼鏡を掛けてでも本を読む様なもので、それはもう楽しいもの、有難いものと言う事になるでしょう。
 何時までもまあ私共が思いますのに、何時までも金の苦労をしなければならなかったり、何時までも人間関係で難儀を感じたり、それこそ人間関係にしても、なら金銭の事に致しましても、それこそゆとりのあるおかげを頂いて、そういう修行からはもう遠く離れた修行。まあ普通で言うならば、安気安穏と言う様な状態にありながらも、尚且つ続けられる修行と言うのは、私は心行以外にない。
 その心行も只自分の為ではない、人が助かる事さえ出来れば、まあそれをもう少し手近なところへ持って来るならば人が喜ぶ事でさえあれば、と言う様な私は心行になって来るだろうと思います。まあ例えて自分の事に思うてみますに、例えば私自身感ずる事ですけれども、もう幾つくらいになったならば、朝のもうゆっくり例えば寝ませて貰おう。御結界も、もう子供達に譲ってしまおう、所謂安気安穏の余生を送ろう等とは、さらさら思わない。これは私のそれこそ手足が叶う限りは。
 愈々御結界の御用神前奉仕は、愈々させて頂かねばならん。させて頂く事が段々楽しくなって来るだろうと思うのです。今でも是位だから先々になればなる程もっと有難いものになって来て、おかげが頂けるだろうと思うのです。ですからもう既に朝早起きをするとか、御結界に座り抜かせて頂くと言う事は。もう既に修行ではない事になります。ですからもう心行をするより外にないのです。
 私は確かにそう言うふうになって行くだろう。教祖様がなさった一生が修行と仰せられる修行、教祖様御自身がなされた御修行と言うのはそういう御修行ではなかっただろうかとまあ思う訳です。神様から色々お伝えになった修行をもう一つ一つ、それこそ疎かになさる事はない。実意丁寧を以て修行をやり抜かれて居られる。その修行がもう当り前の事になって、苦に感じない修行になって終られたとこう思います。そこで本当の修行と言うのは、所謂心行一つに絞られてその心で為す修行と言う事は。
 ただ人が助かる事さえ出来ればという思いを、練った上にも練っておいでられただろうと言う訳です。それをまあ人が助かる事さえ出来ればと云う程しのものでなくても、人が喜ぶ事さえ、それが自分の楽しみと言う様な、心の使い方をすると言う事がです、心行になって来る。成程それが自由自在にそういう、心の使い方が出来ると言う事がです、眼鏡を掛けて本を読む様なものであろうぞいと、肉体を以てするのではない肉体は段々衰えて来る。若い時の様な言うならば修行は出来ない。
 いうならば眼が薄うなる。それでももう眼が薄いから本は読まんと言う事ではなくて、眼が薄うなってもです、矢張り眼鏡を掛けてでも勉強する学者の様なもの。ものじゃと例えて居られるところから想像さして貰うてです、限りない心行その心行の目指されるところはどこであったかと言うと、矢張り人が助かる事さえ出来ればであっただろうと思います。昨日ここを四時半に退ります。退ってすぐお風呂を頂くわけですけど、何時も久富先生と一緒に入ります。
 一緒に湯舟に浸らして頂きながら、少しぬるかったから熱い湯を出して熱くする訳です。私と久富先生と言うと、私も熱湯ですけども、久富先生はもっと熱湯熱風呂です。そして二人して湯舟に浸からせて頂ながら私が心の中に思う事です、ああ自分はこの位で丁度いいけれども、先生にはもうすこし熱かつが好いてあるから、も少し私が辛抱して我慢してからも少し熱くしようと思うたら途端に感動が湧いてきた。感動と云うかね喜びと言う者は絶えず是に持っとかにゃいけません。
 それがいつも感動のし続けと言う訳ではありません。いつも心の中に感動がありますから、ちょっと触れられたらもう溢れてくる様な物です。私は心行とはそれだと思うのです。何時も自分を中心にした考え方ではなくて、何時も人が喜ぶ様な人が助かる事さ出来ればと言うのは、そういう考え方が何時も出来る事だと思うのです。自分がぬるいとが良いからぬるいとに入る。それは矢張り自分本位であり利己主義であります。これでは修行になる筈はない。神様が喜んで下さる心の状態とは言えない。
 絶えず人が喜ぶ人が助かる事さえ出来ればと言う、私は心行と言うのはそんな些細な事だと思うのです。本当に人が助かる事さえ出来れば、人が喜びさえしなさる事ならばと、と言うて為したり思うたりする事はもう自分の喜びにかえって来ておる。もう言うならば心行とはそういう楽しくて有難うしてと言う者ですから、これを心掛けさせて頂きさえすれば限りなく出来る事である。成程これならば一生が修行だと仰せられる修行として、そういう修行を愈々身に付けて行く。 
 そう言う事を絶えず心の中に思うて行く事だと思います。自分のなして居る事が人の迷惑にばっかりなって居る。自分の言うて居る事が人の心ばかりを傷つけて居る、反省してみなければいけません。人が楽になるところではない、人が喜ぶところではない、人が助かるどころではない。そう言う様な私は心の使い方はです、改めていかなければならない、自分もそれに気付かなければいけない。
 自分が思っている事行っておる事がそのまま人が喜ぶ、人が助かる事に継ながる様な思い方をいよいよ工夫していかなければいけない。それが信行だ。成程そういう信行ならばです、もうこれでよいと言う事はない、それこそ寝ていても出来る修行であり、成程一生できる修行であり、しかも愈々それが垢抜けしたものになって来る。有難くて有難くてと云う様な、私は心はそういう心に頂けれるのではないかと思います。
 教祖様がなさったと言う一生が修行と仰るのは、一生お水を被り続けられた、又は何時も断食等をなさっておられたそう言う事ではない。今合楽ではそういう表行的な事を矢張り全廃にしておりますから、愈々心行ひとつに絞らなければなりませんから、先ず自分が行ったり言うたりしておる事がです。果たして人が喜ばれたり人が助かられたり、人がいくらかでも楽になられる様なあり方になっておるかどうかを先ず思ってみて、それを改めて行くという修行、そしてそれとは反対にです。
 人が喜ばない誰も知らない。例えば夕べお風呂に入っていて「先生あなたが熱風呂ですからもう少し辛抱してからもう少し熱いのを入れます」と言わないから解らないけれども、自分だけは有難くなれる修行、だからそれとは反対にです、所謂自分に丁度いい熱加減でちょうど止めてしまうと言った様な汚い心と言うか、根性の悪い心と言うか、皮肉なと言う人がおります。皮肉口を開くと皮肉ばっかり言う、だから恐らく心に何時も皮肉な事をたっぷり考えておるに違いない。
 これでは心行になりません、いえ一生させて貰う修行に程遠い事です。だからそう言う有り方私共に有ると仮定してです、そう言う言うならば人に、返って迷惑をかける様な考え方を改めて、そして反対に人が楽になる、有難うなる。人が助かる言わば心の使い方をさせて頂くと言う事がです、私は教祖様がまあそれは解りませんけれども。教祖様が仰った「一生が修行じゃ」と仰るのはそういう修行であろう、又そういう心掛けの者の上にです何時まででも、金の不自由させなさる様な事ある筈はない。
 又はそう言う心掛けの人に人間かんけいの悩み等があろう筈がもちろん無いです。私は神様を信じると言う事はそう思います。昨日「やつなみ」を送って来ました。その声という欄に、名前を書かないで自分の言いたい放題の事を言って投書して来る方がありますが、こう言う事を書いておるのです「人が助かりさえするば良い。これは本教のキャッチフレーズ、悪い事をしても嘘をついても、手続きを踏まないでも、どんな事をしても人が助かりさえすれば良い。
 これが本教の立て前らしい、本部の教務所もホオカブリの知らん顔、これだから信徒が段々少なくなってしまう。悪い事は悪い良い事は良いとけじめを付けられなう無気力な教団、教務所、信賞必罰がどうして出来ないのか。正直者が馬鹿をみる教団、悪い事のし放題の教団の前途を憂う」。自分はひとかどの愛教者と是にも書いてある。愛教師と本当に合楽で信心稽古した人達ならば、これを見ておかしくなるだろうと思う。人が助かる事さえすれば悪か子としても嘘ついても良い。
 その様な悪い事したり嘘を言うたり、例えばその様な事で人が助かる筈がないと言う所を信じなければいけんです。あれだけの人が助かって居る。まあそれは嘘の様に見えたり悪い事の様に見えたりしますけれども、それは本当はそうではないに違いない。その証拠にあれだけの人が助かって居るではないかと言う見方からしか本当の良いものは生まれて来ません。そういう意味でです私が今日申します心行です、人が喜びさえすれば人が助かる事さえ来ればと言った様な在り方の中におかげが頂けない筈がないです。
 どんなに例えば良い信心をして居っても、所謂正直者が馬鹿を見ると言った様な事では、それはね、信心の無い者が言う事であって。神様が御覧になって素晴らしいから、素晴らしいおかげを下さるのである。悪い事をしても素晴らしいおかげを下さるはずは絶対ないです。まあそう言う類のものが、何時も幾つか出て来るのですけれども、それでなら自分は愛教者の積りでおるとするならば、是は本当におかしな話だと。金光様の御信心は何処までもです真の信心をするから、誠のおかげが受けられるのである。
 真実の道も踏まないで真実のおかげを受けて居る、そんなおかしな話があるか。教務所もしっかりせんか。本部ももう少ししゃんとしないか。悪いなら悪いとちゃんと言うたらどうか、と言う様な事が書いてあるおかしな話でしょう。真実の事をすれば真実のおかげが受けられる。のがお道の信心又そういう神様なんです。そこでなら神様が一番お喜こび下さる在り方に鳴らして頂ければ。今度は氏子が喜ぶおかげを下さらない筈が無い。それを信ずる事が私はお道の信心だと思うのです。
 そこでなら一生修行をさせて頂くにしても、神様に喜んで頂く修行。それは心行しかも人が喜ぶ事でさえあれば、人が助かる事でさえあればと言う心行をさせて頂いて、愈々それこそ学者が眼鏡をかけて本を読む様に、例えば寝て居っても出来る修行。それでいて神様が喜んで下さるその喜びが又こちらに帰って来る。何時も喜びが讃えられている。一寸神様が喜んで頂く様なことを思うただけでも、行っただけでも、それが感動になって湧いて来る様な修行を本気でさせ頂かねばいけないと思います。
 成程これならば、一生が修行じゃと仰る一生それなら苦しい事表行的な事と言う事はなかなか、ほう金光様の信心は一生修行せんならんのと言う感じがしますけど、決してそうではない。それを心行に切り替えるときに、一生それこそ死ぬまでそういう有難い行が出来る修行を教祖は教えておられ、又教祖御自身もそういう修行をなさったのではなかろうかと、これは私が想像するわけですけれども。そんなふうに思います。
   どうぞ。